挨拶は生活の中で人との関係性を作る、想いがつまった魔法の言葉
学生の頃、特に家族に対して挨拶をするという行為をめんどくさいと思っていた時期がありました。
どうして毎日一緒に暮らしていて、すぐ近くにいるってわかっているのにいちいち挨拶しなきゃいけないんだろう。
なので、朝リビングへ行き、両親から「おはよう」と声をかけてもらっても「うん」とだけしか返しませんでした。
何度「挨拶くらいちゃんとしなさい」と言われても、それを改善しようとは思いませんでした。
挨拶できないわけじゃないし、今くらいしなくったっていいじゃない。
礼儀だと思っていたものにはもっと深い意味があるのかもしれない
一人暮らしを始めて毎日ひとりきりの部屋で過ごすようになって、やっと「おはよう」「おやすみ」と挨拶し合えることが当たり前ではないことに気付きました。
私以外誰もいない部屋に「おはよう」と言っても、やまびこのように返事が返ってくることはありません。
ふわふわと、宙に浮いているようなそんな気分で、この場には私しかいないんだということに慣れるまで時間がかかりました。
挨拶をしたときに返してもらえる、なんてことないことだけれども小さなあたたかさ。朝寝坊せずにちゃんと起きてきたんだなとか、学校から無事に帰ってきたんだなとか、そんな小さなことでも気にかけていてくれたのかもしれないとようやく気付きました。
挨拶には、その言葉の意味のほかに愛情や幸せ、安心などいろんな想いが込められているのかもしれません。
そして、自分がここにいることを証明してくれていたような、ここにいていいんだよと言ってもらえていたような、そんな気もしました。
めんどくさいから挨拶しないだなんて、ただの甘えだったのだと反省しました。
思い返すと、挨拶をする間柄の人たちは自分と何かしら関わりのある人たちばかりです。
家族、友人、先生、職場の方、ご近所さん…
全く知らない人には挨拶しない人が大半ではないでしょうか。
そう考えると、挨拶ってただの礼儀や形式としてするべきなんだと思っていましたが、その中には私たちは仲間であるよとか、仲良くなりたいですとか、私はここにいますよ、というような意思表示だったり、愛情だったり、信頼だったり、安心を積み重ねていたり、いろいろな想いが隠れているような気がしました。
おはよう おやすみ いってきます ただいま おかえり
全て片手で数えられるくらいの文字数しかない挨拶ですが、その言葉の中には言った人のたくさんの想いがつまっているのだと思うと、挨拶をするってとても素敵なことのように思いました。
暮らしの中に見える関係性
ちょっと変かもしれませんが、長期間家を空けるときや、今日は外泊しますと決まっている日に出かけるときは、部屋にある家具やぬいぐるみに向かって「いってきます」とか「ちゃんと待っててね」など声をかけている自分がいました。
返事なんて返ってこないのに、どうしてそんな風に声をかけていたのだろう。
あまり考えたことはなく自然にやっていた行為でしたが、それは、部屋そのものが私の帰る場所を守ってくれているような気がするから、そのことに対して感謝して声をかけていたのかもしれません。
なるべく部屋はきれいにしてから長期間家を空けるようにしていましたが、やむを得ず散らかったままの出発の時には「片付けきれなくてごめんね」と思いながら出かけていました。これも、帰ってくるまでの間部屋を守ってもらっているのに申し訳ないな、という想いの表れだったのかもしれません。
挨拶に込めるいろんな想い
なんだか挨拶って、自分の周りの人以外にも、物や空間、動物や植物…いろんな相手との関係性を表していたりつながりを感じさせてくれたりする大切なツールなのかなと感じました。
そして、挨拶には言ってくれた人の私に対しての何かしらの想いがのっかっているのです。
そんな風に考えると、もう昔みたいに挨拶を蔑ろにすることはやめようと素直に思えるのです。
今私が言った挨拶の中にはどんな想いが込められているのかな?そんなことを考えると、今まで見えてこなかった気持ちにも気づけそうな気もしました。
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